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考老学の周辺


             

シニアの人口に占める割合がますます増加する今日、
シニアの生き甲斐、要望、悩みなどの話し合いの場
になればと思ってホームページを開きました。
シニアのこの分野への参加は少なくちょっと淋しい気
持ちです。
このページの読後の感想などお聞かせ下されば幸い
です。
            
              
address:kbst@gray.plala.or.jp

           目次

           やまざくら
           悪たれ小僧の像
           最後の始末
           殿様気分
           ブランコの思い出

 

         やまざくら

 里桜の賑わいが一段落すると、山桜の季節になる。

 日本古来のサクラは「朝日に匂ふ山桜」と古歌に詠まれたヤマザクラ。サクラといえば
反射的にソメイヨシノの名が浮かぶほどソメイヨシノはポピュラーになっている。また、ソ
メイヨシノはその名から吉野山を連想し、これが日本本来のサクラと勘違いされやすい。
ソメイヨシノは江戸時代以後に改良されたもので、山桜でなく里桜。因みにこの古くから
桜の名所として知られている吉野山の桜はすべて山桜である。

 桜は散りぎわのよさから、戦時には国難に殉ずる愛国心の象徴として賛美された。はじ
めから生還を期すことなく,出撃して散った神風特攻隊。その最初にできた四部隊は本居
宣長のこの古歌から「敷島」、「大和」、「朝日」、「山桜」と名づけられた。にがい思い出で
ある。

 ワガハイ(と明治時代の弁士のような口ぶりになるのは国花のサクラを論じているせいで
しょうね)は「散る」櫻より「霞む」山桜に心惹かれるものであります。

 ソメイヨシノ、ヒガンザクラなどの里桜は花が咲いたあと葉が出てくるが、山桜は花と葉が
同時に開く。山桜の葉芽には赤芽、茶芽、黄芽、緑芽とあり、これらが芽吹くときの「芽だし
色」は得もいわれずういういしい。葉芽の淡い黄緑と花芽の白とが点描画のように混ざりあ
って「霞か雲か」の霞が現出する。春霞の風情まさにこれに尽きます。

 この霞の淡い緑が濃さをましたある日、花が散りはじめる。里桜と違って、緑の葉の中か
ら白い花びらがひらひらと舞い落ちる。春の雲と見まがうほどである。

 と、山桜礼賛のあと、がらりと変えたイメージをひとつ。差別語で今は使われなくなった「出
っ歯」という語がある。むかしの人はこの出っ歯のことを山桜としゃれた。花と葉が同時に出
ることを鼻と歯にひっかけたんです。これも使ってはいけないんでしょうかね。

 

        洟たれ小僧の像

  もう十年近く前になるかも知れない。 鳥海山のふもとの村落をドライブしていたときのこと。
はじめて通る部落に迷いこんだので道を聞こうとして、 徐行しながら前を行く少年に声をかけ
た。
 

 少年は振り向いた。その小さな鼻からはウグイス色の洟が二本垂れている。見とれるほど立
派なものである。目を少年の着ている服の袖口に移すと、さすがにそこはぬぐった洟でテカテカ
光っていなかった。が、洟たらし小僧のうちでもA級であることは間違いない。こんな少年には最
近お目にかかったことがない。感動した。

 そういえば年寄りの方だって、わたしの祖母なんか腰が一六〇度曲がって顔が膝にくっつくば
かりだった。それでも元気に部屋から部屋へ歩き回っていたもんだ。そんな腰曲がりの年寄りも
最近は見かけなくなった。

 いまの小学生のなかには肩こり、痛風、高血圧など成人病に悩んでいるのがいる。やれ消毒だ、
やれ抗菌だとあまりにも水を清くすれば、棲めずに消えていく魚だっているだろう。そんな消えてし
まってすっかり幻になってしまった魚に思いがけず出会ったような思いだった。

 小便小僧の像がある。小さなオチンチンを両手でおさえ、反身になって小便を宙に飛ばしている。
この小僧は天使のように愛らしい顔をしている。それとは対照的な悪たれ小僧の像があってもい
いじゃないか。青っ洟をたらし、いたずら心と好奇心で目をぎらつかせながら
竹光を斜めに構えて
チャンバラの大見得を切っている。そんな悪たれ小僧の像である。
         

 

 

          最後の始末

 心臓が停止し医者が死亡を宣告したときから、つまり霊魂が肉体から離脱したときから、肉体は
死体というひとつの物体に化したものと私は考えている。

 と、達観したようなことを言ったが、もう何年か前、テレビの鳥葬の場面で、ハゲタカが残さず平
らげるようにと遺体処理人が死者の頭部に石を打ち下ろす瞬間は思わず目を閉じたことを思い出
す。やはり顔面が砕かれるのを直視するにはよほどの勇気がいる。しかし、この死体が自分であっ
て、自分の頭が石で砕かれる場面を想像しても恐怖感はない。すでに死んでしまって痛みなど感じ
ないと分かっているからだといえばそれまでだが、それよりタカの食べやすいように砕いてくれよね、
という気持ちになるから妙なものですよね。

 さて、死体という物体の処理の仕方でもっとも簡単なのは天日に晒して大地に還す方法である。こ
の風葬は自然まかせだから手間がかからない分、時間がかかるし、そんな長期間死体を置いても生
活環境に悪影響がないような場所があるかどうかの問題がある。土葬は穴を掘って埋めるだけだか
ら土を掘る道具さえあればあとは金がかからない。問題はやはり場所をとること、白骨化するまで時
間がかかることである。それに比べれば火葬は骨にするまでの時間がかからない。が、燃料を必要
とする。インドですら燃料代と焼く人の手間代とで五千円くらいかかるという。それに火葬.場から出る
煙と臭いは環境上問題がないとはいえない。

 再び鳥葬にもどる。これは鳥が全部処理してくれるのだから環境上の問題はない。地球上の生物の
大きなライフサイクルの一環になると考えると、死のイメージが爽やかなものになる。困ったことには食
べてくれるハゲタカ,ハゲワシ、コンドルなどの猛禽類が近くに棲息していない。これでは鳥葬は願うべ
くもない。

 以上、火、土、風、鳥による死体処理の方法を考えてきた。死者をカンバスにくるんで舷側から海中に
どぼんと落とす水葬は一般人には縁がないでしょう。

 となると、金がかからす、環境問題もクリヤーし、しかも、できうれば生存中お世話になった大地と自然
にいくらかでもお返しできる死体処理の次善の方法は何かというと、散骨に落ち着くんですね。

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 日本での散骨の歴史は新しい。石原裕次郎が死亡したとき、兄の慎太郎は弟の愛した湘南の海に遺
骨の一部を撒きたいと申し出たが許可されなかった。法務省が散骨は「葬送のための祭祀で、節度を
もって行われる限り問題はない」との見解をだすのは1991年である。

 それ以来行われた散骨の例を著名人にみると、女優の沢村貞子、作曲家のいずみたくの遺灰はとも
に相模湾に、漫才師横山やすしの遺灰は広島県宮島の沖に撒かれている。アメリカの例では元駐日大
使ライシャワー博士の遺灰がサンディエゴ沖の太平洋上に撒かれた。

 ふつう散骨といっているが、火葬されて骨箱に納められた骨をそのまま散骨するわけではない。通常、
直径2mm以下の粉に砕く。この作業は遺骨を布袋に入れ、金槌で軽くたたいて2mmの目のふるい
にかける。ふるいに残ったものを再び袋に入れてたたき、これを二、三回繰り返すのだが、これは遺族
が骨拾いの延長としてやってもいいし、最近できた散骨業者に頼んでもいい。

 これで散骨の準備は終わる。遺灰の主成分は燐酸カルシウムであるから、自然環境に有益であって
も有害にはならない。散布の場所としては前述の海洋や河川、野や山などの大地、さらには星の輝く空
などが考えられる。散骨という自然葬を選んだ世界の著名人とその散骨場所をまったく気ままに列挙す
ると、インドのネール首相がガンジス川、中国の周恩来は揚子江、アインシュタイン博士はデラウエア河、
マリア・カラスはエーゲ海、ジャン・ギャバンはブルターニュ沖といったところ。また、イギリスでは火葬した
遺灰の六、七割が芝生、花壇などに撒かれているという。

 死体処理メニューのあれこれをみてきた。そのうちで火葬による遺灰の散布を選ぶとして、 どこに撒
くかはゆっくり決めるとしよう。

 

 

         殿様気分

        

 中国に「三上」ということばがある。読書に適した場所は「馬上」、「枕上」、「厠上」の三つだというので
ある。

 「馬上」は馬にまたがりながらの意だが、競馬以外には馬を見ることのなくなった現在では、通勤、通学
途上の電車の車内ということになろう。「枕上」はベッドの上、「厠上」はトイレの便器の上のこと。

 この「三上」、考えてみると、果たして読書の場所として適しているといえますかね。枕上はまあ、いいと
して、馬上では揺れて読みづらいし、むかしのしゃがむタイプの厠上では足がしびれて長時間の読書は覚
束ないでしょう。

 そういうわけでこの三上、読書の場所としては難があるが、考えごとをするにはもってこいのところといえ
る。行き詰まっていた問題解決のヒントがこの三上でひらめいたという経験をもつ人は多いと思う。

 とりわけ、厠は人を哲学的にするようだ。母親の胎内のようなこじんまりした空間の中で、ひたすら排泄
という行為に専念しているせいでしょうね。ひとむかし前、公衆便所がまだ水洗化されず、薄暗くてアンモ
ニア臭がただよっていたころ、大便所内の壁にこんな落書きがあった。
                        

     トイレで人は空想(くそ)し、思考(おしっこ)する。

 おしっこの方はちょっと無理している感じだが、作者が哲学的メイ(迷?)想にふけっていたことは間違い
ない。

 福島県、安達太良のオートキャンプ場で一泊したときのこと。夜中に小用を覚え、テントを出て共同炊事
棟にあるトイレに向かった。男子用、女子用の入口にはさまれた中央に大きな扉があって、車椅子とオム
ツをかえている母親のアイコンがある。ま、夜中のことだし、車椅子も母親の気配もないからと、扉を引い
て中を見た。

 広い。四畳半はたっぷりあるだろう。以前、会津若松の城内で見た殿様用の畳敷きの厠を思い出した。小
の用だったのを大に切りかえ、ゆっくりと殿様気分を満喫した。

                             

 

ブランコの思い出

 

       家の近くに松林がある。もともとは海岸からの飛砂を防ぐための砂防林だった。この林
      の中に野球場、テニスコート、多目的広場がつくられ、さらに、恐竜の背渡り、ぎっこん丸
      太、忍者くぐりなどのあるアスレチック場とそれにほぼ平行した遊歩道が広場を取りかこ
      んで、林の中を一周している。天気がよければこの松林に早朝の散歩に出かけ、アスレ
      チック場に隣接した児童広場のブランコをこいで帰ってくる。

       ブランコというと、白いブランコとかいろんなイメージが浮かんでくる。その中でもっとも対
      蹠的な二つがある。ジャン・フラゴナールのブランコの絵と映画「生きる」で志村喬がブラン
      コに腰を下ろして「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンである。

       フラゴナールの絵の方はあくまでも甘美である。貴族の館の庭なのであろうが、深く濃い
      木立は昼なお暗い。その暗がりの真ん中に華やかなピンクの軽やかな動きがある。ブラン
      コに乗った若い貴婦人の像である。白い縁取りをしたピンクのドレスの裳すそが大きく開き、
      思い切り蹴上げた足首と太ももがまぶしい。その足の下の方の暗がりに若い男が寝そべ
      って、女の足首から飛んだ金色の靴を見上げている。よく見ると、この男の反対側の暗が
      りにも男がいて、女の乗るブランコを綱で引っ張って大きく揺らしている。女のドレスや帽子、
      レースの首飾りばかりでなく、赤と金色のビロードのふかふかしたブランコの台座までもが
      ロココ朝で甘美である。

       若い貴族の男女の享楽的な戯れの舞台となっているこのブランコに対し、映画「「生きる」
      のブランコは主人公である市役所市民課長の淋しくも満ち足りた死に場所となっている。志
      村喬の演ずる市民課長は末期ガンで余命4ヶ月と知らされる。残されたわずかな生を前に
      これまで送ってきた無気力、無感動な人生に決別し、真に「生きる」ことに目覚める。誰もが
      放置していた暗渠埋立ての陳情案件を取り上げ、役所内外の抵抗と闘い、暗渠の埋立てと
      公園建設を実現する。5カ月が経っていた。雪の降る夜、完成した公園のブランコにのり、「い
      のち命短し・・・」の唄を口ずさみながら息絶えるのだ。

       「羅生門」、「七人の侍」、「用心棒」などを監督したクロサワはこの映画でさらに名作をひと
      つ加え、志村喬は世界のシムラとして知られるようになった。公園のブランコのシーンは志村
      の渋い演技と個性的な彼のマスクによって実に強烈な印象を残す。なぜこんなにも忘れがた
      いのだろう。ゴンドラの歌詞の一部に思い出せないところもあったので調べてみた。その過
      程で明治時代のこの「ゴンドラの唄」は後年、「生きる」で志村に歌われるために世に出たの
      ではないかと考えてもいいような気にさせるいくつかの事情が重なり合っていることに気づい
      た。

       まず、作詞者の吉井勇。ただものではない。れっきとした伯爵家の生まれ。次男坊だったが、
      長男が早世したため、嗣子となる。が、放蕩三昧のあげく、爵位を返上している。爵位を棒に
      振るほどの徹底した放蕩のあったことを頭に入れて「ゴンドラの唄」の歌詞を読み直すと迫りか
      たが違ってきませんかね。

            いのち短し 恋せよ少女(おとめ)
            朱(あか)き唇 褪(あ)せぬ間に
            熱き血潮の 冷えぬ間に
            明日の月日は ないものを

       この歌は劇「その前夜」の劇中歌として松井須磨子が歌い評判になった。この須磨子もひた
      むきである。このとき須磨子は劇団「芸術座」の女座長として公演の主役を演じていたが、この
      芸術座結成には須磨子の恋がからんでいる。はじめ、須磨子は島村抱月の主催する「文芸協
      会」に属し、初公演「ハムレット」のオフィーリアで認められて以来、「人形の家」のノラなどで成
      功をおさめ劇団のスターとなった。その間、須磨子は妻子ある師、抱月と切っても切れぬ仲に
      なった。当然、須磨子は世の非難を浴び、文芸協会から追放される。抱月も早稲田大学教授
      の職を追われが、ふたりは屈することなく芸術座を立ち上げたという経緯があるのだ。須磨子
      の公演の特色は劇の中で歌を歌うことで、この歌は当時評判になった。中でも「復活」で歌われ
      た「カチュウーシャの唄」、「生ける屍」の「さすらいの唄」と並んで好評だったのが「ゴンドラの唄」
      なのだ。しかし、須磨子のひたむきさはこれで終わらない。大正8年、抱月が急逝すると、その
      後を追って「カルメン」公演中に自殺して果てるのです。

       須磨子が歌ったこれらの劇中歌を作曲したのは中山晋平。晋平も抱月と関係がある。彼はは
      じめ抱月の書生だった。これらの作曲で一躍名を成すと、「船頭小唄」、「出船の港」、「東京音
      頭」などのヒット曲を次々と発表した。彼は歌謡曲、民謡のほか、「舌切り雀」、証城寺の狸囃子」、
      「てるてる坊主」などの童謡にもヒットを飛ばしている。

       このような作詞家、作曲家、歌手のもとに世に出た「ゴンドラの唄」は、戦後、クロサワ傑作映
      画のひとつ「生きる」でカムバックし、日本ばかりでなく、世界の人を感動させるという経緯をたど
      るのです。
                                                   


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